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地理・歴史・社会・経済の自由な分析とまとめ

JR北海道の経営危機に際して、日本の鉄道がどのような発展を辿って来たのかを振り返る(前編)

初投稿です。

 

昨年11月にJR北海道が鉄道総延長の約半分に達する11路線を維持困難路線として公表した。もし全て廃線となれば、国鉄時代、最盛期には4000km超あった営業キロが1000km強と激減する。

存続の是非を巡って日本中で議論が続けられているのは、鉄道が日本において生活に直結した交通インフラであることの裏返しだ。

 

UIC(国際鉄道連合)のデータによると、鉄道旅客輸送人数で日本は世界1位、(キロ輸送量では世界3位)、交通機関に占める鉄道の輸送シェアの割合では27%でダントツの1位、乗車回数でも年間69回と世界1位である。

国の鉄道利用順リスト - Wikipedia

世界で1番鉄道を利用しているのは日本人で、実際に大多数の人が電車で通勤・通学しているのではないだろうか。その鉄道が、地方からじわりじわりと衰退していることは大変な変化である。

 

自分もほぼ毎日鉄道のお世話になっているが、鉄道が日本においてここまで普及した軌跡について全く無知であることに気づいた。これは知っておくべきだ!と思い調べてみたのがこの記事を作成した経緯だ。分量の勝手がわからず、非常にボリューミーになってしまったので前後に分けてお届けしたい。

では早速行ってみよう、時代は明治までさかのぼる。

 

 

鉄道時代の夜明け

道路交通が発達する前の近代において、鉄道は大量・迅速な輸送を可能にする交通機関の花形だった。都市と都市、原料生産地と工業地帯、更に市場を連結する鉄道は、産業革命期後から急激に経済を発展させた。普仏戦争では鉄道輸送の利点を活かして兵力を集中させたプロイセンが圧勝し、軍事面での鉄道の威力も見せつけた。

近代国家を目指す日本にとっても鉄道は不可欠なもので、1869年(明治2年)に政府はさっそく東京と京都を結ぶ幹線並びに3支線、合わせて4路線の建設を決定する。その頃は技術から資金まで何もが不足していたので、路線の幅はコストが安い狭軌、イギリスに鉄道建設を全て委託した。あくまで日本政府が主体となって計画を進めたことが清やインドなどとの違いである。

 

沿線住民や馬子などの反対にあいながらも鉄道建設は進み、3年後の1872年(明治5年)に日本で最初の鉄道が新橋・横浜間に開通した。開通に合わせて鉄道の営業に関する法規も制定された。

しかし、西南戦争後の混乱や財政不足により、東京と京都を結ぶ幹線、東海道線は計画決定から20年後の1889年(明治22年)にやっと開通する。

建設中に、さすがにペースが遅すぎる、ということで政府は民間資本による鉄道建設に積極的になっていた所、旧大名の華族が秩禄公債(政府から借りた起業資金)の有利な投資先として鉄道に注目し、「日本鉄道会社」設立の計画が立てられる。政府は喜んでこの計画を支持し、50年後の政府の買上権や非常時の自由使用、軍人に対する運賃半額割引などを引き換えに、手厚い保護と援助を与えた。

以上の経緯で日本鉄道会社は1881年(明治14年)に設立され、1883年(明治16年)には早くも上野・熊谷間の営業を始めたが、これがかなり儲かった。具体的には投資利回りが10%に達する程度である。この成功は鉄道投資が非常においしいものであることを資本家に認識させ、この成功をきっかけに、私鉄ブームが一気に訪れるのである。

 

 

怒涛の鉄道建設ラッシュ

日本鉄道会社の順調な成長に刺激されて、明治20年代(1887~1896年)に日本中に私鉄会社が設立された。50社以上の私鉄会社が発足し、政府も補助金などを通して建設を援助する。この時期には私鉄の総延長が官設鉄道を抜き、加えて幹線鉄道の建設を経済状況に左右されることなく進める観点から鉄道敷設法が制定され、鉄道建設の発展が更に加速する。そして、鉄道の発展が近代化に重大な貢献したことが資料から伺える。

このような鉄道の発展は、旅客貨物の大量、迅速かつ安価な輸送を可能とすることによって従前の原始的な交通事情を一変させ、日本経済近代化の基礎を築いた。特に地租負担や新商品経済の侵入に耐えられないで土地を離れた農民や没落士族階級の移動を可能とし、反面で近代産業が必要とする労働者の 雇用を容易とした点は、この期の鉄道の役割として重要なものであった。

- 国土交通省「日本鉄道史」

 

日露戦争の翌年1906年には政府による私鉄の買収・国営化も行われる。買収は整備統一による軍事輸送力の増強を求める軍部と、不況によって営業不振に陥った私鉄の買上を求める財界の要望に沿って進められた。私鉄17社、4800kmの線路と車両2.5万両の国有化が行われ、官設鉄道は全国の鉄道総延長の9割を占めることになる。

 

脇道にそれるが、債権で賄われた買収資金は総額4.8億円であり、当時の国家予算の2/3に匹敵する巨額だった。この金額は私鉄の累積投資額の約2倍だったため、結果として民間資金が著しく潤沢となり、企業の勃興が促進された。

なお、1906年には鉄道路線の総延長は8047kmにも達している。

 

 

鉄道整備の順調な進行

大正、昭和時代に入っても経済発展と共に鉄道網の整備はどんどん進んでいく。1920年代に入ると、鉄道の発展に伴って建設が計画された幹線がほぼ完成し、第二次鉄道網建設計画が建てられた。この計画の特色は、予定線のほとんどが幹線同士を結ぶ支線だったことだ。当時の原敬首相の属する政党、立憲政友会にとって農村の有力者は大きな支持基盤であり、支持基盤に恩恵をもたらす地方開発を内閣が重視していたことが第二次鉄道網建設計画の背景にある。

一方で都市ブルジョワが支持基盤だった憲政会・民政党は、地方新線よりも経済性が高く需要増大が見込まれる幹線や大都市の鉄道の拡充に力を入れるべきだと主張していた。

この鉄道に対する方針の違いは、政権の交代毎に鉄道政策に反映されて、修正されることとなった。

 

1927年には浅草・上野間に日本最初の地下鉄が開通する

1936年(昭和11年)には関西を結節点に本州を8の字に一周する大幹線が完成し、国有鉄道の総延長は約17422kmとなる。現在のJRの路線の総延長20000kmと比べてもほとんど遜色がない数字である

また、1930年代には鉄道網の拡充と共に鉄道技術が大幅に進歩し、国際的な水準に達した。清水(9720m)丹那(7804m)等多くの長大トンネルもこの時期に竣工し、新型機関車・電気機関車国産化に成功した。自動連結器や空気ブレーキの採用、信号装置等の自動化も進められ、より一層の大量輸送と安全性の確保が可能になった。

鉄道網の延伸と合わせて既存の鉄道の改良も進められたが、中でも顕著だったのは電化工事であり、首都圏の中央線・東海道線から電車に切り変わっていった(逆に言えばそれまでは全て機関車だった)。

 

この時期の特色は、経済発展と都市化に伴い都市近郊の人口が急激に増えて、郊外と都心を結ぶ高速通勤輸送手段としての鉄道が発達したことである国有鉄道、私鉄共に電化や高架化によって輸送力を増強し、郊外電気鉄道網の基礎が完成した。1933年には東京・大阪の2大都市近郊区間が総旅客輸送人員の5割を占めるに至った。意外なことに、日本独特の電車通勤の風景が生まれたのは戦前であったことが推察できる。

 

苦境と第2次世界大戦

さて、時代は大正・昭和であったが、鉄道経営は第一次世界大戦後の不況、関東大震災や金融恐慌をものともせず好調を維持し続ける。しかし、世界恐慌後についに不調に陥った。主な原因は恐慌による貨客の減少だったが、他の輸送機関との競争が激化したこともそれに拍車をかけていた。進歩を続けてきた自動車がついに鉄道の競合相手として表舞台に上がって来たのである。

鉄道業界の収益率は著しく低下し、人員の整理やバスの直営、事業の多角化などさまざまな対応策を講じて苦心の経営を続けた。

 

日中戦争が始まると、戦時による需要の増大から輸送量が増加に転じる。戦時経済に徐々に移行していく中で戦略物資ガソリンを大量に消費する自動車、船が足りない海運とくらべた鉄道の優位性が発揮され、鉄道の重要性はますます高まっていた。輸送力増加のために急ピッチで線路の増設が進み、旅客輸送よりも貨物輸送が優先された。非常時体制にあたって私鉄の買収が実施された。輸送量の増強のために利用が少ない地方線の営業を一時的に休止し、レールや枕木を重要な幹線に転用するという相当無茶な努力もされたようである。

 

しかし努力の甲斐虚しく、空襲によって鉄道は大きな被害を被ることになった。戦争を通して総延長の5%の線路が戦災のダメージを受け、車両は2割近くが被害を受けた。直接被害のほかに、戦時下において資材不足からメンテナンスの不備や車両の酷使・施設の荒廃も甚大だった。

他方で鉄道は国民生活に無くてはならないものとなっており、戦後すぐから鉄道の必死の復興が始まるのである。

 

 

後編に続く

 

 

出典

国土交通省鉄道主要年表」, 2012年

国土交通省日本鉄道史」, 2012年